フリートーク(放談)

「愛」とは、その形とは。「愛」は常に真実とともにある。

 

最近「実の息子をあやめた元官僚」のニュースを偶然TVで見ました。

 

そして、その時のあるコメンテーター気取りの発言に大きな違和感を持ちました。

 

そのコメンテーター気取り曰く

「自分の子どもをあやめる親は絶対にいないと思うわけです」と。

 

あぁ、この人はこんな歳になっても本当の「愛」に触れたこと、感じたことがないのだと思いました。

 

そこで今回はそのような「愛」の形、「愛」とはについてほんの一部ですが書いてみたいと思います。

 

「愛」の形に決まったものはない

まず。親が「愛」をもって自分の子供を手にかけることは本当にありえないことなんでしょうか。

 

私は絶対に違うと思います。

 

イメージも簡単に浮かびます。

 

例えば、もう回復の見込みがない怪我や末期の病気で本当に苦しんでいる最愛の人に対する選択肢は、回復を願うだけではなく、もう楽にしてあげたいという気持ちもわくはずです。

 

それは最愛の人だからこそ、と思う場合もあるでしょうし、自分の子供だから、自分自身が最後まで責任を持つという場合もあるでしょう。

 

そして、このどちらの場合でも選択肢、形こそ違えどそこに「愛」はあるのだと思います。

 

「愛」とは「無償の奉仕」などという自分の利益になるだけの、わけのわからない事を平気で言い放つ人も世の中にはいますが全く当てはまらないと思います。

 

「愛」にはさまざまな形や考えがありそれは人ぞれぞれのものですが、「奉仕」に縛られるものではありません。

 

親であれば、自分の子供をあやめることは絶対にないというのは、そこに「愛」があるのであれば、あてはまらないことははっきりしていると思います。

 

「愛」とは提供する者にしかわからない「真実」

それでは、「愛」とは何か?と聞かれたらなんと答えることができるでしょうか。

 

この手の質問は非常に難しい問題です。「恋」と「愛」の違いはなにか?なんていう問題もありふれていると思います。

 

1つ言えると思うのは、「愛」とは

「提供(与える)する者の真実をあらわしているもので、自分ではなく相手のことを優先にしたもの」

ではないでしょうか。

 

例えば、お母さんは無条件に赤ちゃんの世話を無尽蔵にやってくれます。

これは自分よりも赤ちゃんを優先にして行動しているものであり、その行為の源はお母さんの心の底、まさに真実そのものではないかと思うわけです。

 

ですから、それが「愛」なのか、そうでないのかは、本当は提供した側にしかわからないことであります。

 

ですから、受け取った側が勝手に「愛」の形だと思っていたら違っていたなんてことも良くあることではないでしょうか。

 

例えば、「愛」を持って厳しく指導してくれていたと思っていたら、特に何も考えておらず、ただ厳しいだけだったとか、よく起きていることだと思います。

 

「これは、お前のためにやったことだよ」と言われても、それが、その人の真実かどうかで本当に「愛」であったのか、そうでなかったのかがはっきりしているというわけです。

 

親が子供をあやめたとして、そこに「愛」があったのか、なかったのかは、あやめた本人にしかわかりませんが、

 

そのようなことは絶対にないとは断言できることではなく、また言い換えれば、親が自分の子供を手に掛けるようなことは絶対にない

などということは正しくありませんし、どのような形、結果であったにしろ「愛」とは、他人にはわからないときもあり、

 

確実に言えることは、「愛」とは常に真実とともにあるものであると私は思います。

 

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