
世の中、なんでも行き過ぎすぎると良くないですし、そもそも意味をなさなくなるようなこともありますよね。
そんなものの1つが「マナー」だと思います。
今回は、私が嫌いな2つのビジネス「マナー」について書いていきたいと思います。
★目次(もくじ)
「マナー」について
先に、「マナー」という言葉について少し見てみたいと思います。
私の中で「マナー」とは、
「社会・集団生活の中で、自分の行為が他の人へ不快な思いをさせないよう最低限守るべきルール」
であると考えています。
自分の振る舞いによって、他の人に不快感を与えることがないよう、最低限の注意を払った行動を心掛けるということが、「マナー」を守ると言えるでしょうか。
また、他の人というのは、すべての他の人という意味(そんなことできるわけないので)ではなく、「それなりの数の他の人」ということだと思います。
それなりの数の人が「妥当である」と判断できるポイントが、いわば最低限度の「マナー」のラインであり、誰も彼もが「妥当である」と判断できるポイントというわけでは無いと考えますね。
このような「マナー」という言葉を再確認したところで、それでは私が嫌いな2つのビジネス「マナー」について書いてみたいと思います。
判子をお辞儀しているように傾けて押す
これ何でしょうね(笑)。
上長の方に判子を傾けて押すというものですが、最初の人は一番下なので、一番深くお辞儀(傾けて)して、だんだん傾きが緩やかになっていくというやつですよね。
一言で片付けるなら、
ただ「見にくいです」。そして傾きがばらつくので「美しくない」です。
もし、これが手書きだったら実際に自分の名前を傾けて書くのでしょうか(笑)。
本当に心の底から思うのですが、
「何の意味もない」ことを理屈で上手に説明できないからといって
「マナー」という一言で片付けようとすることが、今の世の中には氾濫していませんか。
例えば、人事のときに某航空会社のCA講師をお招きし、マナー講習を開催した際、
『お辞儀の際は相手の目を見た後で45度に』
などを「マナー」として教えていた記憶がありますが、
判子に至っては、目もないですし、そもそも人でもないものが代わりにお辞儀していますっていう状況について、逆に失礼となったりしないのでしょうか。
そして、そもそも書類に判子を押す目的としては、確認しましたという証明と、それがひと目でわかるようにしているところですよね。
であるのにもかかわらず、あえて見づらくなるように傾けて押すことに対し、何の違和感もないのでしょうか。
などと考えてしまいますね。
急ぎの要件・重要な案件・お礼や謝罪は電話で
これを上長から言われるときついです。
電話って、実は一番気をつけないといけない連絡手段ですよね。昭和世代といえばいいのか、そのあたり以上の世代は、とかくすぐ電話しがちだと感じます。
電話をかけるという行為は、
自分の都合で、問答無用でそのときの相手の時間も強制的に使わせてしまうもの
であって、それは、
『こちらは今電話かける時間があるので電話をかけています』
ので
『ぜひこの私の都合の良いこの時間に(あなたの都合は知らんけど)電話に出てくれませんか』
と言っているのと変わらないのではと思ってしまいます。
これってなかなか無神経ですよね。
唯一、受ける側では出ないという選択肢はありますが、もし出るまで何度もかけたりしたら、この一方的なお願いを繰り返すわけで、これが本当に「マナー」と呼べるものなのかと感じずにはいられません。
そして、この場合の「マナー」とは、誰に対する何ための「マナー(なのでしょうか?)」と考えれば良いのか、少なくても電話をかけられる側でないことだけは間違いないと感じますね。
また、『着信があれば折り返すのがマナーだ』とか、このようなものは『直接伝えないと失礼だ』という人もいるかもしれません。
また出ましたね、「マナー」。
『着信があったら折り返すのがマナーだ』という気持ちはわからないでもないですが、上で書いたように電話とは、かけた側の一方的なお願いですから、それに応えなければいけない理由はないですよね。
ただ現実では、相手に悪いからという気持ちで折り返すことは多いとは思いますが、これは「マナー」でも何でもなく、気遣っているということではないでしょうか。
あと、『直接伝えないと失礼』だという場合の、『直接』とはどのような意味なのかなと思います。
対面か電話でないもの、例えばメールやメッセンジャーなどは直接話をしていないという考えなのでしょうか。
現代では、電話を避ける人は間違いなく増えていますが、そのような人は電話というものがこのような一方的な手段であると理解していることもその一因としてあるのではないかと思いますね。
理不尽、無意味、謎「マナー」は捨てていきましょう
上記で書いてきたように、「マナー」であると言われるものの多くには、別視点から見ると何かしらの矛盾が存在しているのも事実です。
理屈だけでは説明しきれないことを、「マナー」という便利な言葉を使うことで、堂々と存在させることが行われてきたように感じますね。
また、「マナー」とは、それなりの数の人たちが不快に感じないライン、最低限のルールというところですから、行き過ぎた「マナー」の強要ともなれば理由も意味もないただの押し付けにしかなりません。
私は、何ごとに対しても理由や意味を考えるタイプなので、現代の多くの「マナー」ついて、本当に適当なものであるのかという点には懐疑的な立場です。
ですので、「マナー」として何かを学んだときには、一度俯瞰し、それが『確かに』と思える適当なものであるかを客観的に考え判断するようにしています。
個々によってどこまでを「マナー」と考えるのか差もあるでしょうし、一概に「マナー」として自分が知ったことを、そのまま誰かに押し付けるという行為は何か違うし、勘違いしていると思いますからね。
現代においては、世の中に氾濫する多くの「謎マナー」によって、実は「マナー」疲れしている人が多いのも事実ではないかと感じたりもします。
皆さんが知っているその「マナー」、本当に理由があって意味があるものなのでしょうか?
意識を高くする方向ばかりに気を取られすぎてしまい、理不尽な「マナー」、無意味な「マナー」、謎「マナー」に縛られ苦しい思いやつらい思いをするぐらいなら捨てていくのも良いと思いますね。
私も自分が意味がないと感じた「マナー」は守らないし、行動しませんが何の問題も感じません。
現代は理屈っぽく自由で多様性に満ちている時代ですからね。