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「伊達政宗 終焉の地」の行き方! 日比谷公園内【アクセス情報】

こんにちは。ウィッフィーです。私は歴史好で、特に戦国時代が好きです。

 

例えば、三方ヶ原で武田軍に大敗し、命からがら逃げ帰った徳川家康の心境はどういうものだったのだろうか。

とか

本能寺の変が起き、首謀者が明智光秀と理解したときの織田信長の心情はどのようなものだったのだろうか。

 

など考えると、永遠にわかることではないのであれこれ考えワクワクしてきます。

 

あとはゲームや漫画の影響も大きいですね。信長の野望で興味を持った武将の生い立ちなどを調べたり。知識はそんな程度で大したことはありませんけどね。

 

そして、今日は霞が関に用事があったので、事前に地図を確認していたところ、偶然、日比谷公園の中に「伊達政宗の終焉の地」というものを発見しまして。

 

ぜひということで、行ってきましたので、今回はこの「伊達政宗の終焉の地」行き方について書いこうと思います。

 

「伊達政宗 終焉の地」 とは

「伊達政宗の終焉の地」への行き方の前に、そもそも「伊達政宗の終焉の地」とは何?ということについて少し書いてみたいと思います。

 

この「伊達政宗の終焉の地」とは、実は寛永13年(1636年)5月24日初代仙台藩主伊達政宗が70年の生涯を閉じた仙台藩上屋敷があった場所となります。

 

1601年に徳川家康から江戸城に近い外桜田、現在の日比谷公園の一角に江戸屋敷を与えられ、これが「伊達政宗の終焉の地」ということになります。

政宗の最期が近づいた折には、将軍の家光が直々に見舞いに来たこともあったそうです。

 

現在では、この場所にはパネルが立てられており、1661年まで伊達家の上屋敷として使用されていたことや、政宗が家康、秀忠、家光の三代の将軍をこの屋敷でもてなしたことなどが日本語と英語で紹介されています。

 

「伊達政宗の終焉の地」とは、仙台藩祖伊達政宗が最期を迎えた伊達屋敷があった場所ということですね。

 

アクセス 最寄り駅は「日比谷駅」か「霞が関駅」

さて、それでは、この「伊達政宗の終焉の地」までの行き方を見ていきましょう。

 

最寄り駅は「日比谷駅」です。東京メトロ「千代田線」「日比谷線」、都営「三田線」の駅です。この「日比谷駅」のA10の出口を出てすぐ目の前となります。

 

ですので「日比谷駅」に着いたら、とにかく『A10出口』を目指していきましょう。

 

簡単に『A10出口』に着けると思いますので、そのまま『A10出口』から外に出ます。

 

外に出るとすでに目の前が日比谷公園ですので、『A10出口』出てすぐ目の前の交差点前にある日比谷公園の入り口から入ってその方向(大きい通り(晴海通り)沿い)のまま直進すればすぐです。

 

日比谷公園の入り口にも「伊達政宗の終焉の地」の案内が出ていますのですぐ見つかると思います。

 

また「霞が関駅」からでしたら、『B2出口』から出て、日比谷公園内を北東方面に向かっていけば着きます。

 

途中にはきれいな花壇や広場がありますので、眺めも楽しいですよ!

 

心字池が見えてきたら池沿いに進みます。

 

すぐに到着です。

この説明サインには、あの有名な「政宗陣羽織」の色彩が施されています。

ひときわ目を引いて映えますね。
 



 

伊達政宗について

最後に少し「伊達政宗」について書いておきますね。

 

伊達政宗は1567年8月3日米沢城にて生まれます。父は伊達輝宗、母は正室の最上義守の娘で、政宗と奥羽の覇権を争った最上義光の妹ですね。

 

幼名は梵天丸(ぼんてんまる)といい、幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明しし、隻眼となったことから、後世に「独眼竜」と呼ばれることになります。

 

「独眼竜」の由来は、中国の隻眼の英雄「李克用」からきているとも言われていますね。

 

天正5年(1577年)に、11歳の梵天丸は元服し政宗と名乗ります。

天正9年(1581年)、15歳の政宗は相馬氏との合戦で初陣を飾ります。

天正12年(1584年)、18歳の政宗は伊達家の家督を継ぎます。

 

そして、家督を相続した政宗は領土拡大に強く野望を抱き、それまでの方針を転換して領土拡大に向け行動していきます。

 

そんな政宗を突如悲劇が襲います。

 

1585年10月8日、前回の戦いで輝宗の仲介によって、政宗から許されていた畠山義継は、その御礼を伝えようと宮森城の伊達輝宗の元を訪問します。

 

そして、あろうことか伊達輝宗を拉致し自身の居城である二本松城に引き上げようとしました。

 

ちょうどそのときに鷹狩をしていた政宗は、連絡を受けすぐに追跡し、阿武隈川河畔の安達郡平石村高田のあたり(粟ノ須古戦場)で追いつくと、輝宗を人質として盾にしていた畠山義継を、輝宗もろとも鉄砲で射撃しました。

 

この父もろとも敵を撃った話は、政宗の逸話の中でも有名な話ですよね。

 

ただ、これには諸説があるようでして、

畠山義継自身が逃げられないことを悟って輝宗を殺害したとか、輝宗が「自分もろとも義継を撃て」と伊達政宗に命じたなどとも言われています。

 

さらには、政宗が鷹狩りの途中で追跡してきたものとしては、鉄砲が多すぎるのではないかとも言われており、政宗自身による陰謀ではないかという話までありますね。

 

このように多くの説があるのは、謀略を得意とする政宗らしいと思います。

 

この事件後、すぐに二本松城の戦いや人取橋の戦いがおこり、政宗は苦戦しながらも、父の仇である畠山義継の遺臣の居城である二本松城を手に入れることとなります。

 

その後1587年には、天下人である豊臣秀吉が奥羽に向けても惣無事令を発します。

 

惣無事令とは、領土紛争などの私戦禁止令のことで、受け入れた大名については領土安堵を認めたりしました。

 

しかし、当面の政宗はこの惣無事令を無視するかのように領土を拡大のための戦いを重ねていきます。

 

これがあの小田原参陣の遅れと決死の白装束に繋がっていくわけですね。

 

小田原征伐の際に前田利家を通じて千利休に茶の湯の教授を申し出、見事に天下人秀吉との対面へと繋がる逸話なども有名ですよね。

 

政宗の死因は、胃がんや食道がんと言われております。

 

伊達政宗の功績は現代でも生きている

すでにこの世にいない伊達政宗ですが、彼の功績は現代でも見ることができます。

 

例えば、現在の仙台の名産品であるずんだ餅は、政宗の時代に創られたものと言われています。

 

また、伊達男(だておとこ)などの語源でも有名ですよね。

 

このような逸話の多い戦国武将、「伊達政宗の終焉の地」にぜひ行ってみてくださいね。

 

 

 

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