「伊達政宗 終焉の地」の行き方!【アクセス情報】

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日比谷公園にある伊達政宗の終焉の地

 

 

こんにちは。ウィッフィーです。

 

私は歴史好きです。

というか戦国時代が好きです。

 

人と人の心の駆け引きや

人情といいましょうか。

 

例えば、

三方ヶ原で武田軍に大敗し、

命の危険があった徳川家康の心境は

どういうものだったのだろうか。とか

 

本能寺の変が起き、

首謀者が明智光秀と理解したときの

織田信長の心情は

どういったものだったのだろうか。

 

など考えると、

永遠に正解はでてきませんので

あれこれ考えワクワクしてきます。

 

あとはゲームや漫画の影響も大きいですね。

 

信長の野望で興味を持った

武将の生い立ちなどを調べたり。

 

花の慶次の中で史実が出てきたりすると

なんか嬉しかったり。

 

そんな程度で知識は大したことはないので、

詳しい方のように語ることはできませんが、

 

今日は霞が関に用事があり

事前に地図を確認していたところ、

偶然、日比谷公園の中に

伊達政宗の終焉の地 というものを

発見したということでして。

 

ぜひ写メに撮っておきたいということで

行ってきましたので少し書いておきます。

 

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伊達政宗について

1567年8月3日米沢城にて生まれる。

 

父は伊達輝宗、母は正室の最上義守の娘。

政宗と奥羽の覇権を争った最上義光の妹です。

 

幼名は梵天丸(ぼんてんまる)

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、

隻眼となったことから

後世には「独眼竜」と呼ばれることになる。

 

独眼竜の由来は、

中国の隻眼の英雄「李克用」からきている

とも言われています。

 

李克用も「独眼竜」と呼ばれていたといわれ、

その軍団は黒づくめの軍隊、

「鴉軍」と呼ばれ恐れられていたといいます。

 

天正5年(1577年)

11歳の梵天丸は元服し政宗と名乗ります。

 

天正9年(1581年)

15歳の政宗は相馬氏との合戦で初陣を飾ります。

 

天正12年(1584年)

18歳の政宗は伊達家の家督を継ぎます。

 

家督を相続した政宗は領土拡大の野望のため

それまでの方針を転換していきます。

 

1585年10月8日

前回の戦いで輝宗の仲介によって、

政宗から許されていた畠山義継は

宮森城に伊達輝宗を訪問し御礼を伝えようと接近し、

そこで伊達輝宗を拉致し

自身の居城である二本松城に戻ろうとしました。

 

ちょうどそのとき鷹狩をしていた政宗は、

すぐに追跡し、阿武隈川河畔の安達郡平石村高田

のあたり(粟ノ須古戦場)で追いつくと、

 

輝宗を人質とし盾にした畠山義継を、輝宗もろとも

鉄砲で射撃したといわれています。

 

この話は有名な話ですよね。

 

ただ、これには諸説あって、

畠山義継自身が逃げられないことを悟って

輝宗を殺害したとか、輝宗が「自分もろとも義継を撃て」

と伊達政宗に命じたなどと言われています。

 

政宗が鷹狩りの途中で追跡してきたとしては

鉄砲を多数打ちかけていることから

政宗自身による陰謀ではないかという話までありますね。

 

この事件をきっかけに伊達家は

今後政宗1人が動かしていくとになります。

 

このあとすぐに二本松城の戦いや人取橋の戦いがおこり、

政宗は苦戦しながらも、

父の仇である畠山義継の遺臣の居城である

二本松城を手に入れることとなります。

 

1587年

天下人である豊臣秀吉が奥羽に向けても惣無事令を発します。

 

惣無事令とは、領土紛争などの私戦禁止令のことで、

受け入れた大名については領土安堵を認めたりしました。

 

当面の政宗はこの惣無事令を無視するかのように

領土を拡大のための戦いを重ねていきます。

 

これがあの

小田原参陣遅れと決死の白装束に繋がっていきますね。

 

このあたりで好きなエピソードと言えば、

小田原征伐の際に前田利家を通じて

千利休に茶の湯の教授を申し出、

見事に天下人秀吉との対面へと繋がる話や、

 

将軍秀忠を自らの江戸屋敷に招いた際の

毒見の話などが

私の中の政宗像らしく感じます。

 

また、仙台の現在の名産品や産業には、

政宗の時代に創られたものあり、

経済的感覚も秀でていたことが

証明されていると思います。

 

伊達男(だておとこ)などの

語源も有名ですね。

 

伊達政宗 終焉の地 とは

寛永13年(1636年)5月24日

初代仙台藩主伊達政宗が70年の生涯を閉じた

仙台藩上屋敷があった場所です。

 

1601年に徳川家康から江戸城に近い外桜田、

現在の日比谷公園の一角に江戸屋敷を与えられ、

政宗の最期が近づいた時には、

将軍家光が見舞いに来たこともあるようです。

 

政宗の死因は、胃がんや食道がんと言われています。

晩年の政宗は食にこだわりが強かったようです。

 

現在はその場所にパネルが立てられており、

1661年まで伊達家の上屋敷として使用されていたことや、

政宗が家康、秀忠、家光の三代の将軍を

この屋敷でもてなしたことなどが

日本語と英語で紹介されています。

 

雰囲気だけでも十分感じられますよね。

 

アクセス

日比谷公園の中にありますので、

まずは日比谷公園を目指していきます。

 

日比谷駅からであれば

A10の出口が最寄りになると思います。

 

地上に出て、日比谷公園内に入り目の前の

大きい通り(晴海通り)沿いを

進むとすぐです。

 

霞が関駅からはB2出口から

北東方面に向かっていけば着きます。

 

途中きれいな花壇や広場がありますね。

 

心字池が見えてきたら

池沿いに進みましょう。

 

到着です。

この説明サインは

仙台市が建てたものらしいです。

 

あの有名な

政宗陣羽織の色彩が施されていますね。

映えますね。

 

政宗が生きた時代から

約400年ほど経つわけですが、

もし生きていたら

今のこの眺めを何と言うのでしょうかね。

 

想像しただけでワクワクしていました。

それでは~。

 

 

花の慶次。昔私も全巻読みました。

キセル「コン、コン、バチィィ~ン!!!」