
パワースポットとして有名な清正井(きよまさのいど)ですが、この清正井とはどんなものかご存じでしょうか。気になるその場所は実は明治神宮の中心部にあります。
明治神宮の一部の再開発が決まったこともあってか、最近また注目スポットとして来訪者を増やしているようで、今回はこの清正井の由来を見てみたいと思います。
★目次(もくじ)
清正井の逸話と由来
世間一般で流布されている清正井の由来としては以下のような感じでしょうか。
現在の清正井がある地には戦国時代の名将加藤清正の下屋敷があった。その屋敷で築城や治水の名人であった加藤清正が井戸を作った。その井戸の水は枯れることなく湧き続けたため縁起が良いものとされ、後世「清正井」と呼ばれ、現代では縁起が良い、またはパワースポットと呼ばれ、多くの人が訪れている。
明治神宮の公式HPにも同じような説明があります。
本当は清正が作った井戸ではないかもしれない
このような由来が世間一般で認知されているところ、実は清正が作った井戸ではないかもしれないというのが事実ではないかとされています。
その理由として簡潔に書きますと、
現在の清正井がある地に、加藤清正の屋敷があったという文献がない
ということから、清正が作ったというのは難しいのではという学者もいます。
実際過去のさまざまな文献などを確認してみると確かに現在の清正井がある地に、加藤清正の屋敷があったことを残しているものがありませんので、
清正が井戸を作る理由がないと考えられつつも、実際はわからないというのが本当のところだとは思います。
なぜ清正井とされるようになったのか
もうこれは過去の文献からの推測でしかないところですが、江戸時代では清正井のある地は井伊家の屋敷がありました。これははっきり文献に残っています。
そして江戸時代の井伊といえば、そう井伊直弼ですね。桜田門外の変で暗殺された人です。国賊として暗殺されたというのが一般的でしょうか。
時代は流れ大正に。明治天皇が亡くなりゆかりの地である代々木に明治神宮を建立することになりました。その際に国の偉い方たちの中で、国賊である井伊家の跡地に作るというのはなんともよろしくないということになったのではないかと考えます。
そして何とか良い方法はないものかと考えた末に、日露戦争を導いた軍部や指導部、また明治天皇の側近には、治水の神であり戦の神とされていた加藤清正に対する信仰が厚いものが多く、他方世の中においても、義理人情に厚い人物とされ人気者であったため、
悪評を封じ込めるべくこのような流布が意図的にされていったとみるのが現代的な見方になるつつあると思っています。
歴史のあるあるですが社会で知る内容は史実とは全く違ったり、真逆であったりするのは多いものです。
しかし今回私としては、清正井が偽物かもしれない、違うかもしれないということを言いたいのではありません。
いかに加藤清正という人物が愛されていたかが少しでも伝わってくれればうれしいなと思うだけですね。